2012年1月31日 (火)

「暗い流れ」 和田芳恵

和田芳恵の「暗い流れ」 「接木の台」 河出書房新書版を

読んだのは、昭和54年(1979年)位と見当を付けている。

そう思い込んだのは、本の末尾に書かれている発行年月日からだ。

「暗い流れ」は確かに新しく買ったものに間違いはない。

「接木の台」の方は「暗い流れ」に誘われて、古本屋で求めたものである。

古本屋と言っても

<ブックオフ>のような中古本売屋はなかったから、京都か大阪に行った時に求めたと推測する。

高岡で知っている古本屋と言えば、今も御旅屋通りに店を構える

文明堂書店だ。でも、其処で買ったようには思えない。

何故、和田芳恵を読み始めたのか、どうにもその時の感覚と言うか、思いと言うものが見えてこない。

ただ、その本の事を書いた

手紙の下書きのようなものが、原稿用紙に残っている。

・・・

どうもありがとうございました。

丁度、頭の中が空漠としていて、活字を求めていた所でした。

和田芳恵の「暗い流れ」を読み終えて、

後味の悪さが、こびり付いてもおりました。

その為、「兎の眼」に或る種の清涼感を期待して読み進めたのでした。

逆に覆いかぶさるような重圧感を覚えて仕舞ったのです。

・・・・・・・・・・

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2012年1月21日 (土)

ヤッコ トラ チン ジャンボ

等と

同じサークルの女の子に呼び名(綽名)を付けていたのは私ではない。

と思うが しかし記憶も判然としない今となっては、それも確かなものかどうか。

ただ、T小学校の教え子が巡り合わせで私を手伝うようになった時に、

<ジャンボ>と名付けられて

随分嫌な思いをしたと聞いた時には、

取り返しの付かないことを平然とやっていたものと

後悔させられた。

親しみを込めたつもりでその子にそんな表現をしていた心算でも、

その時の其の綽名のしめすものが、自分の思いとは別に受け止められていることを

ちっとも考えずに呼び名を付けて仕舞う。

そして、ずっとそのことを

自分では良い思い出として残している。

そんな心の交差違え(こうさたがえ)を

今になって知る。

ヤッコは 名前からのものだからいいか。

でも本人はそう思っていないかもしれない。

自分達が2回生まではそんな雰囲気は全くなくて

・・・さん…君などと丁寧な言葉遣いがそのサークルには在った。

奉仕活動が主で在った事からでもあると思うが。

何時かの時点で 何かを得たか、何かを失ったか。

とするとやはり綽名を付けたのは私達であったのか。

もう一つ所属していた

クラマ画会では最初から

呼び名を考えていたのは どういうものだったろう。

それはそれ、新入生の緊張を解(ほぐ)してやろうという

心遣いでは在ったと思う。

お前は富山から来たから 「越中」

お前はメガネが似ているから「工事」 ドリフの仲本工事から来ている。

お前は顔が紅いから 「赤だし」

こんな調子だった。

越中は「越中ふんどし」を連想して

余り気分の良いものでは無かった。

けれど、この時分には

もう越中ふんどしなどと云う言葉自体を知らない学生がほとんどであったから

そんな苦慮は無用であったかもしれない。

ちなみに、越中ふんどしを

下着に使っているひとは富山では今も健在である。

銭湯に行くと時折に見かける。

その布ひも一本に手拭をぶら下げた様な

越中ふんどしは使うと心持がとてもすっきりするそうな。

細川越中守がその名前の由来だそうで、

決して生産地が富山なのではない。

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瓜食めば 子ども思ほゆ 

栗食めば まして偲ばゆ 

いづくより 来りしものぞ 

眼交ひに もとなかかりて 

安寝し寝さぬ 

山上憶良 「万葉集巻五」

60歳を過ぎての憶良の詩である。 

宇利波米婆 胡藤母意母保由  

久利波米婆 麻斯弖斯農波由  

伊豆久欲利 枳多利斯物能曽  

麻奈迦比爾 母等奈可可利提

夜周伊斯奈佐農 

「心のかけはし」富山県教育委員会社会教育課発行家庭教育ニュース第8号

という小冊子に 

この詩とその解説が載せられている。 

子どもは自分の子であるとともに、

授かりものである (いづくより 来りしものぞ)

そう考える視点が必要では とある。

同じ冊子に

「梅干しの味」という題で小さな文章を載せている。

<今の子供は礼儀作法を知らないのではという声が聞かれます。

けれども、子どもたちの心の中の、

素直に物を見つめる目や人に対する優しさは決して失ってはいないと思います。

ただ、その心を 言葉として また行動に

どう自分を表現して良いのか分からないでいるのが現実だと思います。

遊びや地域社会とのつながりを失いつつある子どもたちは

これまでのように自ら学びとるということが少なくなっています。

だとすれば、子供が一人歩きするための生活習慣を、

今こそ教えてやらなければならない時だと言えます。

挨拶の仕方、言葉の遣い方、身の処し方等、

相手によって時と場所を考えて、

こうするのだということを教える事です。

その為には、「型」の訓練が必要と言えます。

そして、その「型」に心の味付けをしていく中で

子供達は自分なりの工夫を加え

自分なりの在り方を築き上げていくと思います。>

昭和62年のことである。

こんな自分の文章を読み返してみると

伊豆久欲利 枳多利斯物能曽

この見方が私には欠けているのだ。

つくづくに そう思えてくる

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2012年1月 7日 (土)

サンデー毎日

京都に住む

Yからの葉書に

「4月からは≪サンデー毎日≫です。」

と書いてある。

一瞬考えて、そういう意味かと納得するまでにしばらくの時間が必要だった。

もちろん彼女が出版関係に勤めていたのなら、

「ああ。職場を変えるのかと。」

素直に受け入れたに違いない。

余りの懐かしき おやじギャグ に

遠く離れるYのほくそ笑む顔を思い浮かべて

苦笑いの呈である。

そういえばあの頃、こんなギャグを言っては

お義理笑いをして貰って居たのを思い起こした。

御返しにしては、随分の時が経った。

話をごちゃまぜにしては何だが、

その「サンデー毎日」をつい最近に目にしたと思ったら、

くちゃら くちゃら と読んでいる

「御宿かわせみ」 文春文庫版

の最後にこう書いてあるのを見ていたからだ。

<初出>小説サンデー毎日・昭和48年2月号より~隔月連載 ・・・・

丁度この一年前に

サークルの仲間と一緒に富山に来ていた。

そして能登へとワイワイと皆で旅したのを覚えている。

私の家にみんなが来たのを

日付まで覚えているのは、

或る事件を1日中 テレビ中継していたからだ。

1972年(昭和47年)2月28日。

浅間山荘事件だ。

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2012年1月 6日 (金)

夜中に目を覚まして

貴方のことを思うと

涙がポロポロ落ちた。

誰かの傍らに寝ると

よく眠れるのダロウナ。

 

寒い冬ですが、身体大切になさって下さい。

 

娘さんと奥さん、くれぐれも大切に。

 

また、遊びにゆきますから

 

よろしく言って置いて下さい。

 

貴方が

 

帰ってから、

 

またひとつ

顔が変わったように思えます。

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2012年1月 1日 (日)

道標とや

翁媼之道標途哉孫二人

ずずばばの みちをしめすや ねねふたり

2012.1.1

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2011年12月31日 (土)

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3人で永観堂に入りました。

永観堂 禅林寺の本堂などを拝観したのは初めてのことです。

永観堂の庭先は自由に出入りが出来る時代でした。

ですから、庭周りをして山の中腹に在る、多宝塔を仰ぎ見る。

茶店で休み、わらびもちを注文して

じっくりと流れるままに

時間を過ごす。

そんな感じでしたから、本堂などを見た事もなかったのです。

でも、今は庭にはいるにも拝観料が必要となっています。

「折角だから、入ろうよ。」

母娘に促されて中を巡りました。

確かに、それまで気づきもしないものが

在ります。

「みかえり阿弥陀」には

とにもかくにも驚きました。

もう 歳の暮れ

 

めずらしく

 

大みそかの夜空には、オリオンがすっきりと見えている。

 

此処は何処だ

 

toshi

 

そう呼ばれたことはこれまでにないことだった。

 

それ以後だってそう呼ばれたことは無い。

 

toshi

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2011年12月12日 (月)

またぞろ

12月にもなると、雨模様の天気が続くことは分かっている。

分かっているのに

「ああでもない。」 「こうでもない。」

と先延ばしにして来た為に、

今頃になって門構えの松の剪定をしている。

そうしないと雪つりが出来ないからだ。

もちろん他の家々はとうの昔に雪つりも終わっているこの時期にだ。

その時の思いだけでの

その日暮らしをしているから、こうなるのだけれども、

あんまり頓着もしてはいない。

雨や雪模様の天気が重なると外での仕事が出来やしない。

仕事と言ったって収入になるのではなくて、

その都度の道楽の様な手仕事だ。

畠の様子を見て土替えをする。

木々の枝ぶりを自分だけの按配で切り詰める。

山に入って小屋掛けの候補地を探しまわって整地に掛かる。

ついでに自然薯を掘る。

屋根の雨漏りに手を掛ける。

眼を遣ると、細かい所に随分とやることが在って、

好きなことから手を出していくから、

松の枝整え等はついとついとに後回しにされてしまう。

そのうちに この雨続きだ。

雨になるとお手上げで、うっちゃうっちゃと持ってきた本を手に取ってしまう。

これまでには精々でご機嫌伺いのつもりで読んでいたものにも手を出していく。

京都の家の道路沿いはカナメモチの生け垣になっている。

随分と放って置いたのが伸び放題になっていた。

剪定が終わって、ふぃと時間の空きが出来た時に、

本棚に並んでいたのがこの文庫本の群れだ。

平岩弓枝著「御宿かわせみ」

シリーズものの様で、同じような装丁の本がずううっと並んでいる。

そのうちの最初の7冊を持ってきて、

読み始めたのがいけなかった。

いけなかったというより、良かったのかな。

御蔭で雨の日には其れにのめり込んで仕舞うことになって居る。

日が差してきた。そろそろ一仕事しないと、思うのだけれど、

この話を読み終えてからにするかと、眼をまたぞろ本に落として行く。

其の1話を読み終えていざ立ち上がろうとすると、

今度はまたぞろ雨が降り始めてくる。

こんなもんや。

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2011年12月 7日 (水)

まさか

娘が一緒だとは思いも付かなかった。

法然院のいつもの居所で

靴を抜いて鹿ケ谷の山裾を見詰めていた。

本堂の前である。

板間の階段の中途に腰掛けて

時を過ごす。

今では結構 人も来るようになって

じっと一人で過ごすことは出来なくなってしまったが、

それでも約束の時間までとそこに坐っていた。

本堂の中からは

「なまんだぶ、なまんだぶ」

の念仏が聞こえている。

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声をかけて来たのは、

時間も とうに過ぎて

谷崎潤一郎の御墓へ向かおうとした参道の途中でのことだった。

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20年も経っているのだから、見間違えるのは当たり前のことと

思っていたが、

揺らぎがお互いを伝えるものが在って

直ぐに分かった。

声を出す前に

「これからどちらへ行かれますか。」

と尋ねてきた。

一息のみ込んで

言葉を重ねた。

隣に20歳前後の娘が居たからだ。

「そうですね。もう一度哲学の道に戻って

 真如堂から永観堂へ抜けて

 南禅寺にと行くつもりです。」

そう答えると、

「同じね。

 お一人ですか。

 よかったら

 ご一緒してもいいですか。」

娘に同意を求めるそぶりを見せながら

聞いてきた。

小さな驚きを見せてはいたが、その娘は

わたしを見詰めながら、頷いている。

心の裡で、

≪そういうことか≫

と得心して

「いいですよ。」

そう言って頬笑みを返した。

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2011年11月30日 (水)

鏡石通りを北へと

鏡石通りを逆に北に上る。

鹿苑寺(金閣)の駐車場を左に見て、小さな道を踏みしめて行く。

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少し進むと右に三条天皇陵の囲いを望む。

左手は、山裾の斜面となって、カソリックの修道院があり、

児童養護施設を併設する表示が在る。

そのままに道を進むと

「しょうざん」へと分け入る道と合流する。

この「しょうざん」への道あたりから

昔ながらに川が流れて、水音を高く響かせている。

ブレックファーストの準備の灯りが輝く広い一室に、テーブルが整えられている。

橋を渡ると紙屋川が左に移って

大文字山の裾を深くえぐる谷となって下って行く。

山間から朝霧がゆっくりと降りてきて

ひにゃリと 体を包み込んで行く。

鏡石の家並みを抜けると

不意に杉や橡の木立が蔽い込み 揺るぐ朝陽を遮って

行く手に幽かな戸惑いを覚える。

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木立をとにかくに過ぎると

谷間の木々の色どりが 少し少しと見えてくる。

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鏡石通り沿いに在る

吟松寺が 通り人を 誘い込むようにして

建っている

境内を掃く婦人の

「おはようございます。」

と快い声が響く。

先には、右の山手を上って行く道が在る。

光悦寺へと繋がる山道だ。

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2011年11月29日 (火)

きぬかけの道

京都の家は、わら天神の直ぐ近くになる。

 

家からは、「金閣」の在る鹿苑寺まで歩いても5分とは掛からない。

 

金閣寺前を南北に走る通りを鏡石通りと言うが途中からは木辻通りと変わって

 

堂本印象の美術館前あたりからは、「きぬかけの道」と名付けられている。

 

ずっとその通りを下って行くと竜安寺、御室の仁和寺にと続いて行く。

 

竜安寺までだって左手の立命館衣笠学舎に沿って

 

ゆっくりと歩いて行っても

 

20分もかかりはしない。

 

この季節だと「きぬかけの道」には、椎の実がぽろぽろと落ちている。

 

リハビリで毎日30分は歩いているが、

 

竜安寺までの往復は丁度いい具合になる。

 

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2011年11月27日 (日)

コロ

18日は一人

何度も 何度も 歩いた道を

廻った。

銀閣寺電停前は 今は北白川今出川となっている。

それはその通りで、市電が無くなっては、電停前とは言いにくい。

旧銀閣寺電停前等と言っても其れこそ意味もない。

アイスキャンディー屋で

大文字焼きを一つ袋に入れて貰って、道々頬張りながら進み出でて行く。

大文字焼きという言い方は、店に寄るものか、地方に寄るものか。

富山では、大判焼きと言っている。

関東なんかでは、今川焼と言うのだそうだが、大文字焼きの方が私には、しっくりくる。

その言い方「大文字焼き」は、8月14日の「送り火」からの命名には違いないが、

送り火を「大文字焼き」と言っては京都人に総スカンを食う。

「大文字の送り火」もしくは「五山の送り火」なのである。

そうして北白川疏水を行く。今は、食堂「大銀」の前からもう「哲学の道」との表示が在る。

けれども、その「大銀」の前あたりは空き地が在って、

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そこに屋台が出ていた。

テントが確か三張り在って

豚骨ラーメンが売りのラーメン屋

おばちゃんのおでんがぐつぐつと浸かっていたあの一杯飲み屋

そしてその隣にうどん屋が在った。

うどん屋はやはり、きつねうどんが旨かった。

紫野に在る大徳寺の今は有料駐車場になっている所にも屋台が在って、

此方は本当の移動式の屋台で

銭形平次に出てくるあの屋台そのものだった。

此処のきつねうどん、其れを食べたいがために生きていた時期が在る。

四回生の時には、もう、その疏水の入り口に在った

おばちゃんのおでん屋もおっちゃんのうどん屋も

妙な臭い、そうガス燈のアセチレンガスの匂いがするラーメン屋も無くなっていた。

屋台がアチラこちらで締め出されたのは、万博の影響と言えた。

結局その銀閣寺前電停から西に一筋入って南に下がった所に一軒家の店を出した。

おばちゃんにずいぶん世話になったことも在って、その店に出かけてみると、

隣がうどん屋に成っていて、

「ああ、おっちゃんとおばちゃんは夫婦やったんか。」

その時初めて気がついた。

そういうと隣のおっちゃんは何時もの様に口数少なく、下を向いてしまう。

「一福亭」と名付けられた、その店は

でも、屋台の様には人はこなかった。

うどん屋のおっちゃんはもっと暇そうになった。

おでんの具にコロ(鯨の脂身)があって、最初は馴染めなかったが、

それでも一番安くて、腹ごなしが出来るものだから、食べ続けていく。

終いには、コロがないと

口寂しくて仕方のないようになってしまった。

大根とコロで十分満腹になる。

薄暗いテントの中でのコロ

もう一度食べてはみたいと思う。

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2011年11月25日 (金)

11月15日

折角なら15日にしようか

百万遍の知恩寺さんで 手作り市が在るじゃない

見てみたいし。

 

 

この約束が果たされるものか、どうか

不安もあるが

約束が守られないとしても、

それはそれで二人が今日まで歩み進めて来た道筋に

ずれが生じる訳でもない。

それでも、やはり

その約束が実現されるまでの時間は

心の揺れがさざめくから

出来れば会うことがうまくいくようにと。

知恩寺に着いたのはもう2時半を過ぎて3時近くになってしまった。

あの当時は

広く思われた境内は 小さな店が犇めき合い、

訪れる人の波が、只でさえ狭い其の通り道を

更に通り難くしている。

待ちくたびれて 去って行った後か

最初から来ていなかったのか

どちらかは分からず仕舞いになった。

この知恩寺では

湯川秀樹さんを時折と見かける事があって、

小さな散歩を洒落ておられたのかと思う。

’70年まで京大教授を勤められていて、

講義の空き時間で在ったろうか

同志社前から市電に乗って下宿の銀閣寺前まで帰るには

市電が限られていた。

多くは河原町今出川で河原町へと南下していく。

となると、其処で降りて交差点の反対側に渡り

道路の真ん中に在る停留所で乗り継ぐこととなる。

河原町今出川までは、そんなに距離が在るわけではないから

勢い歩くことになる。同志社女子大の前を通り抜ければ右手は、もう御所の森の端になって

「月餅」が見えている。

三菱銀行が角にあって、交差点を真っ直ぐ進むと行き先には賀茂大橋がもう目の前にある。

しんどいと感じる事もなく大橋を渡る。

橋の中途で左手の高野川と賀茂川の合流する中州を眺めている。

そうして息を継ぐと結局は百万遍まで歩いて行く事になる。

金の無い時はそのまま知恩寺の境内に入って 本堂の回廊に腰掛けて

時を過ごす。

そんな折に 湯川さんを見かけたのだった。

知恩寺を出て京大の農学部への道手前には、

駸々堂がある。

大きな木製の卓机

少しくゆとりのある時はそこで珈琲を飲み

本を広げた

もっと余裕のあるときは、その先の傾斜道を上がって

新しく出来た喫茶「アン」に入った。

当時としては洒落た厚手のコーヒーカップを出している。

女の子も気の効いた垢抜け感が有って

綿パンに化粧気のないバリ(バリケード)の女の子達を見慣れている者にとっては

新鮮な酔いに浸ることが出来た。

そうして、歩き通して 1時間以上も掛かって

銀閣寺前の電停に辿り着くことになる。

夏には交差点のその東南角に在るアイスキャンディー屋で

アイスを買う。

今だってちゃんとその店は在る。

道路はさんだ反対側には 喫茶ビリヤードのケルンが在った

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もう少し銀閣寺に向かって歩を進めると

大銀食堂になる。

やっぱり

大銀だって ちゃんと今だってあるんだ。

もちろん構えは新しくなってはいるが

42年前とちっとも変らずに

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そこにある。

流石に、

「出し巻き1丁」

「あかだし いっちょう」

と大きな声で調理場に注文を伝えていた

少し化粧が濃くて 大柄の

ねえちゃんは居なかった

あの時で

幾つぐらいだったろう

女の人の歳は

なかなか分からないのだけれど

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2011年11月24日 (木)

百万遍の知恩寺

本当に 逢うの

私にも、あなたにとっても

今はもう意味の無いことは分かっているのよね

それでも 逢う?

貴方にとって 私はずっと只の人

私に は

何時もそうよね 自分の都合だけで

調子のいい時は知らん顔で

具合が悪くなったら・・・

言い方がきついかも知れんけど

いいか

・・・・・・・

・・・

折角なら15日にしようか

百万遍の知恩寺さんで 手作り市が在るじゃない

見てみたいし

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結局はHと

京都に留まることなく

一度は戻ることにした

23日はきららかに晴れ渡ったので、

山に入る。

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今年の初めとしては、大きさも形も

満足のいくものだった。

今日になって とろろ汁にして

頂いた

京都もいいが、伏木も いいか

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2011年11月10日 (木)

銀閣寺前町

もうこんなところ嫌やし。

 

ねえ、二人で住む所見つけようよ。

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銀閣寺の参道入り口から

 

少し南に下りた駐車場に車を入れた。

 白川疏水沿いの哲学の道より随分と土地が低くなっている。

 無料(ただ)で止めるところはいくつか知ってはいるが、

 それで右往左往する時間が勿体無くて、

前渡しの料金を払った。

階段を上がり哲学の道に出た。

如何しても出発点を元の下宿の玄関口にしたいから、

左に大きくカーブする銀閣寺参道前の所へと戻る。

疏水沿いにある公衆便所横の橋を渡って

シャトー銀閣の前を通ると板塀に囲まれたI教授の家の前を通る事になる。

松の枝ぶりが野放図なのは、

I氏の講義と同じで方向性が定まらない。

そう思っているのは私だけで、

結構学生が集まって来るし、

その奔放さがかえって人気を博していた。

その道から10メートルも進まないうちに、

小さな交差点があって、

右に曲がるとその先奥にひょっとすると

社(やしろ)が在るのではと思われる石段が続いている。

結構の勾配ではある。

見上げる先が、樹々に覆われていて見えない。

一点透視の構図になって、石段の先の焦点が天空に在る。

その登り切った左が下宿だった。

進駐軍の駐留宿となったと聞いたが、

その桧皮葺きの門から踏み石の続く玄関までの道筋には

低木が植栽され涼しげな高木の影に陽の揺らぎが照り返している。

狭い分け道が建物の横へと伸びて行く。

茶室に連なる露地だ。

囲い塀は何時の間にか 竹垣となって

開かれた大きな庭ヘと続いて行く。

アカマツが森のままにその庭に取り入れられている。

北西の角を築山にした。

その上に杉皮葺きの茶室が建っている。

其の四畳半の茶室が私の部屋だった。

一畳千円の時代に成っていて

月4500円の下宿代である。

おばさんはもうとっくに七十を越えていたろうと思うが、

独りこの家を守っていた。

後に分かったことだが、息子さんは○▼銀行の

社長後にには会長を務めた人だった。

銀行協会かなんぞの会長も兼ねていた時もあって

国会での答弁にも参考人として呼ばれている。

祇園祭の折には、おばさんに連れられて

その銀行の京都支店に行った。

屋上から山鉾の巡行を見るためである。

銀行の人たちが随分と丁寧な出迎えをしていたのを思い出す。

この婆さんいったい何者だと驚いた。

もう一人下宿人が居たが、その恩恵に与るのは

何時も私一人だった。

不思議に気に入られて、

「鴨川おどり」の招待券も貰って

観劇に出向いた。

後にも先にも、そんな贅沢な事が出来たのは、

この時ぐらいだ。

母が、その頃の慣習のようにして、

寒ブリを年末に送ったのも利いているようだった。

丁度,Y子が洗濯に来ていて、

台所でその鰤を捌くのを手伝っていた。

Yは婆さんのその手際の良さに驚いていた。

結局その日の夕食は

座敷に招かれて、ブリの照り焼きやお付けなどを

御馳走になった。

 

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2011年11月 8日 (火)

流葉スキー場の

一番上のゲレンデにもリフトがあって

小高い山の傾斜が有る

<ここを直滑降で一気に下りようよ>

<ノンストップ>

<いい>

その猛速に後ろ倒れになるのを

スキー靴で耐えていた

恰好付けずに

もっと前屈みにと後悔した

滑り通しはしたが

この恨み晴らさでか

そう考えてはいたが

思いを現実化しようと

今も計画は

練っている

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テニスを始める前には

必ずその様態を見せる

口に止めゴム(シュシュ)を噛んで

両の手を後ろ手に

髪を結ぶ

その仕草を盗み見るようにしていると

いつも

どぎまぎし

頬が赤らむ

大きな眼が

凛として

私の迷いを見透かすように

みつめている

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2011年11月 6日 (日)

Hoh

Hohは死ぬ

だけどHohは生きている

Hohはいい人だと思う

憧れさえ感じる

けれど自分は自分の人生を行く

Hohは先輩である

Hohと友達に成れないのは残念である。

自分が3回生になる時は

Hohの様に成りたいと思う

Hohに自分を解ってもらえないのは

残念で仕様がない

酔っ払いの自分でも本当の自分を

解ってもらいたい

単なる酔いに任せた言葉である

否 解って貰おうとは思わない

けれどやっぱり解って貰いたい

自分である

何も語らず何もせず ただ黙って

 

 

Yohの窮屈な正義感

にも、それと同じことを感じていなかったか。

彼女の目指すものに、一種の偏狭さを感じていたような気がする。

その意固地なまでの福祉に対する思いに

怖さを感じていた。

というより、其処まで情熱を傾けている

彼女に嫉妬していた。

違う。

嫉妬と言うより、

その一途に思い込む彼女の危うさを訝る感覚だ。

言えば言うほどに、反発してその中へ自分を追い込むようにしていく

引き留めようのない無力感に包まれていく。

自身を追い込んでいく先には

≪私などは≫見えてもいなかった。

その余裕を振り払う、アソビの無い 彼女に

我慢ならなくて壊していく術を グリオン に求めていった。

「Yは人形じゃない」という

言い訳には その意味がある。

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2011年11月 1日 (火)

紅葉川の源流

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国道415号線を

伏木から太田に進めるには

国分隧道のトンネルを貫ける必要がある。

トンネルを抜けるとすぐ右手に

紅葉姫公園が在る。

高岡市太田の

浄蓮寺に残る「紅葉谷由緒記」

に記されている紅葉谷があった場所である。

その谷には紅葉川が流れていた。

其の紅葉川の源流の一つがこの写真の場所である。

紅葉川は現在国道やJR氷見線の下を暗渠になって

富山湾へとその水を流し込んている。

よく見るとマンホールのようなものから

水が勢いよく注ぎ入るのを見つける事が出来る。

紅葉姫の話は

http://toyamanoteiou.blog102.fc2.com/blog-category-5.html

を参照していただきたい。

この谷合いがちょうど持山との境界にあたる。

しかし この谷に降りるには 少し勇気がいる。

この辺りや気多神社(伏木一宮)の後ろの谷合い

林道白山線の付近は磁石が効かなくなる。

と昔から聞かされている。

実際自分の山に入って

何度か迷い込み 気が動転したこともある。

方向感覚が無くなって来るのである。

必死で来た道を探ろうとするが、もがけばもがくほどに、

自分の居る位置が捉えようも無くなる

そんな不安感に蒼ざめ 恐怖心に襲われ身動き出来なくなる

山と山の接点が谷の出発点のようで、チョロチョロと水が流れ出している。

ここが紅葉川の源流とわかる。

橋の無かったこの紅葉川に行く手を阻まれて

紅葉姫が道に迷い

命を失くしたのは、空腹や旅の疲れだけでは無いように思えてくる。

私と同じように 今在る 自分の位置を

捉えようの無い不安感と共に 失ったのだ。

生きている事の 絶望をも醸し出す空気がこの場所には漂っている。

この源流の山間をよく見ると

持山にも在ったのと同じような作りの洞窟が有った。

全く同じ形式のものだ。

入口が2か所あって中で通じている。

しかしこの二つの洞窟は、持ち山のものと比べてその距離が長い。

20メートル近くもある。

反対側の山崖に上って、

同時に二つの穴をカメラに収めようと思っても

出来ない程に離れている。

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